チベットの歴史

チベット神話伝説の時代

観音菩薩により祝福された地、チベットの発祥は伝説によると、 チベット族の先祖は一匹の猿と岩の羅刹女でした。
この夫婦から生れた6人の子供達は半猿半人で、全身を毛で覆われのっぺりした顔をしていました。
このときにチベット民族の6つの氏族が誕生しました。
先祖の猿は、その子供たちに森を住むべき場所として与えました。
彼等はそこで牝猿と一緒になって増殖していきましたが、 夏になれば雨と太陽とにいためつけられ、冬になれば雪と風とに悩まされました。 彼等には定まった食物もなければ、衣服もありませんでした。
観音菩薩の化身である彼等の先祖はこれをみて憐み、彼等に「六種の穀物」をもたらしました。 こうして、ヤルルン地方のソタンで最初の畑がつくられ、猿人どもは少しずつ人間の形をとるようになりました。

吐蕃王国、歴史舞台への台頭

チベットがアジアの歴史上に登場するのは、7世紀初めの吐蕃王国のソンツェン・ガンポ王(581?〜649)の時代からです。
彼の父の時代にすでに中央チベットへ進出していた吐蕃は、チベット高原の諸部族を討伐し服属させるとともに、 当時黄河上流の青海にあった吐谷渾から諸制度を学び、620年には官位12階を制定しました。
634年には、親好を求め大国唐に遣使し、公主の降嫁を要求しました。
しかし要求が認められないとすぐに吐谷渾を攻撃、唐領四川松州を制圧し、再度降嫁を要求しました。
唐は軍を出して対抗しましたが、641年に文成公主を嫁がせることで決着を着けました。
その頃には、ソンツェン・ガンポ王はチベット高原の諸部族を征服、統一王朝を開創しました。
当時すでに強力な軍事力を擁していたチベットも、文化的にはまだ未熟な地でした。
文成公主の降嫁は、チベットに多くの唐代文物をもたらし、文化を開花させる目的もありました。
現に文成公主が吐蕃王国に嫁ぐ際にもたらしたジョウォ像(釈迦牟尼仏像)はチベットで最も聖なる仏像として、 ジョカン寺に祀られ、その他重要な文物は、その後のチベット文化に多大な影響を与えました。
このような文化的政策はネパールにも行われ、国王の娘のティツム(赤尊公主)を降嫁させるに至りました。
ソンツェン・ガンポ王は在位時には他にも、インドに遣使しサンスクリット文字を研究し、チベット文字を作り、 仏教経典のチベット語への翻訳の礎を確立するなど、チベットにおける貢献は多大なものでした。
吐蕃はその後もますます勢力を増強し、ティソン・デツェン王(在位754〜796)の時代には最盛に達しました。
763年には隙を突いて長安に侵入し、わずか14日間ですが、占拠に成功するという吐蕃にとっては正に快挙を成し遂げます。
その後の783年、現陝西省清水県での会盟で、吐蕃軍の領土は河西回一帯、敦煌を含む、 廊六盤山脈から西の土地の大半、ということで落ち着きました。
占領統治は561年までのほぼ80年間に上りました。
一方吐蕃国内ではティソン・デツェン王がチベット初の僧院、サムイェ・ゴンパの創建に取りかかっていました。
しかし当時、土着のボン教等の土地神の妨害によって建立に困難を極めた為、 インドの大学僧パドマサンバヴァ(グル・リンポチェ) を呼び寄せました。
パドマサンバヴァの神通力によって、数々の神々を鎮め、ようやく僧院を完成させました。
サムイェ・ゴンパは、インドの学僧カマラシーラと中国禅宗の大乗和尚を呼び論争させ、 インド仏教を国教と定めた場所でもあります。この論争以来、インドから盛んに仏教を取り入れることとなりました。
ティソン・デツェン王は797年に逝去しますが、その後8代目のチック・デツェン王の代も仏教に傾倒し、 古代チベット仏教は栄華を極め、黄金時代といわれました。
チック・デツェン王は841年に暗殺され、兄のランダルマが即位しました。
ランダルマ王は排仏派に乗じ、仏寺を閉鎖し、僧侶を還俗させ、チベット土着のボン教を復活させました。
しかし、大勢の僧を殺害した王は仏教徒の怒りを買い、ついに暗殺され、2年足らずという短い即位に幕を下ろしました。
翌年、ランダルマの2人の子は王位継承をめぐる争いを始め、それぞれ地方に散り自らを王と称しました。
それぞれの王国は843年、ついに完全に分裂し、チベット古代王国は終焉を迎えました。
この混乱に乗じた唐は、河西回廊近辺の被占領地域を回復、また敦煌の豪族張議潮が周辺から吐蕃を追い払い、 吐蕃の川西占領もここに終焉をみました。

群雄割拠の時代

ランダルマ王の廃仏後、チベットは群雄割拠の時代に突入します。
王家の一部はチベット西部のンガリ地方に落ち延び、グゲ、プラン、スピティ、ラダック一帯を支配しました。
ランダルマ王の息子、ウースンから4代目のイェシェーウー王はグゲ王国を統治、チベット仏教復興に尽力しました。
当時イェシェーウー王はネパール、カシミールに遣使し仏教を学ばせるなど、仏教復興への貢献は多大なものです。
グゲ遺跡の北にあるトリン寺もイェシェーウーによって創建されました。
1042年、インドの高僧、アティーシャが西チベットに招かれました。
アティーシャは、インドの後期密教の総本山、ヴィクラマシーラ寺の修道院長として、 顕密両教に通じたインド仏教最高の指導者です。
アティーシャはトリンで『菩提道燈論』を著し、これは後のチベット仏教に決定的な方向性を与えました。
その後、彼はチベットでの布教活動に従事し一生を終えますが、 その教えはチベット最大のゲルク派の本質を形成するに至りました。

教団の活躍、チベット仏教への貢献

先の時代に西チベット各地で復興・発展を遂げたチベット仏教の勢いの衰えることはありませんでした。
この時代、チベット全土を統括する王家が不在のチベットではさまざまな教団がその土地の氏族とつながり、 さまざまな宗派を形成しました。分類すると、サキャ派、カギュ派、ニンマ派、ゲルク派の4宗派です。
各宗派の基礎が出来上がった次の時代、チベット仏教に大きなうねりをもたらしたのは4大宗派のひとつ、サキャ派でした。
チンギス・ハンが逝去した後の1227年、モンゴルは西夏を滅ぼし、チベットと国境を接します。
1240年、チンギス・ハンの孫に当たるコデンは、チベットに服従を迫りました。 その今にもチベットへ進軍せんとするモンゴル説き伏せ、逆に当時のモンゴルに、齢10歳になる弟子パクパを連れて赴き、 チベット仏教を広めることに成功したのがサキャ派の指導者サキャ・パンディタです。
サキャ・パンディタの弟子パクパは1258年、親しくしていたフビライが主催した道仏論争に初めて仏教側の代表として 初めて公式の場に姿を現し、道教に勝利しました。
1260年、フビライが元王朝を立てると、パクパは元の国師として玉印を授かりました。
1264年には総制員長官となりチベットの行政権を得、また元朝の国字に当たるパスパ文字を制定します。 この労功が認められ、大き宝法王の称号を授かります。
1280年、パクパ逝去の後もサキャ派は栄華を極め、元朝皇帝の帝師として君臨し、12代続きましたが、 派内の問題、元朝の相次ぐ反乱により衰退し、最後は滅ぼされてしまい、比例するようにサキャ派の力も衰えていきました。
サキャ派の勢力低下に伴って徐々に頭角を現したのが、 チベット仏教最大の学者で哲学者といわれるツォンカパ率いるゲルク派です。

ゲルク派の政権獲得と激動のダライ・ラマ

ゲルク派の創始者ツォンカパ(1357〜1419)は、かのアティーシャを祖として、 厳格な戒律主義を重んずるカダム派を改革・再建するものとし、それをゲルク派としました。
1049年、ガンデン寺を創建。ガンデンの意は兜率天で、 これはアティーシャが死後兜率天に生まれ変わったと信じられていたからです。
戒律主義を前面に掲げた仏教改革者と他の旧派教団との対立は避けられず、 長期間の宗教戦争が幕を閉じたのは16世紀後半のことでした。
16世紀は1578年、転生活仏制度を採用していたゲンドゥン・ギャムツォの転生活仏にあたるソナム・ギャムツォ(1543〜1588)は、 青海省に訪れて内モンゴル最大のアルタン・ハン(1507〜1582)と会見し、 ダライ・ラマの称号を授かり、軍事的援護の約束も取り付けました。
ソナム・ギャムツォの死後、ゲルク派はアルタン・ハンの曽孫をその転生者、ダライ・ラマ4世として選出しました。
このようにゲルク派は他教団との戦いにおいて優位に立つこととなりました。 それと同時に、ゲルク派に改宗したモンゴルの勢力が力をのばし、歴史の舞台に登場するようになります。
1642年、西モンゴルからでたグシ・ハンが、敵対するカルマ派・カギュ派の王を滅ぼし、中央チベットに進出しました。
中央チベットを制圧し、その地をダライ・ラマ5世(1517〜1682)に布施しました。
ゲルク派は長きに渡る宗教戦争に勝利し、法王になりました。こうしてダライ・ラマ政権は誕生しました。
ダライ・ラマ5世はポタラ宮殿の建設に取り掛かりました。工事は1645年に始まり、50年余りをかけて竣工しました。
1652年、ダライ・ラマ5世は自ら北京に赴き、清朝皇帝と相互関係の確認をします。
1682年、偉大な5世と称されたロサン・ギャムツォは廃仏しましたが、当時の摂生をつとめていたサンギェ・ギャムツォによって、 その死は15年間もの間秘匿されました。
ダライ・ラマ6世はインドのニンマ派の家に生まれましたが、泥沼化した権力闘争に反発し放蕩者に育ち、 しばしば宮殿の外に遊びに出て、ついには自ら還俗してしまいます。結局ダライ・ラマの地位を追われ、護送中に没したとされます。
その間、西モンゴルジュンガル部のガルダン(1645〜1697)は、ゲルク派に仕え、敵対の勢力討伐に当たりましたが、 東方モンゴル高原のハルハ部を打ち破りこれを侵略すると、ハルハ部は清に援助を求め、ついには清朝に滅ぼされてしまいます。
1717年、ジュンガル軍がラサを占領し、ダライ・ラマ7世を即位させようとしましたが、 1720年、清朝が青海にいたダライ・ラマ7世を擁してラサへ進攻、ポタラ宮において正式に即位させました。
以後、モンゴルがチベットをかく乱しないよう、ラサに駐在大臣をおき、 チベットでの出来事を逐一報告させ、後援者としての役割を担いました。


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